下町のフレンチレストラン「ビストロ・パ・マル」に舞い込む謎を、変人シェフ三舟さんがサラリと解き明かすというシリーズ三作目。
忘れた頃に続編が出るシリーズだなぁと思いながら、「やったー!」と大喜びで手に取りました。相変わらず、三舟さんの作るお料理が美味しそうです。フランス料理とはあまりご縁がないんですが、このシリーズを読むと、どこかのフレンチレストランに飛び込んでしまいたい、そんな衝動に駆られてしまいます。お話に登場したお料理のアレコレを食べたくってしょうがなくなります・・・。
美味しそうなお料理とは正反対に、謎解きの方は、ちょっとほろ苦いものが多くって・・・。もちろん、ウルッときたものもあったんですが、それよりも、うむむむ。と眉間に皺が寄っちゃうものも多かった。特に最後の「ヴィンテージワインと友情」は、”ほろ苦い”ではなく”苦々”という感じでした。ただ、良い印象のなかった友人が、実は一番、彼女のことを思ってくれていたというのが分かったのはホッとしたかな。あと、タイトル作の「マカロンはマカロン」もなかなか苦みを感じるお話でした。そうそう!実はこれだけは先に真相が分かったんですよね~。別な意味でちょっと嬉しい(笑)
そして、本当の意味で(笑)嬉しい気持ちになれて好きだったのは「ムッシュ・パピヨンに伝言を」かな。最後、思わず「おぉ~!」と声が出そうになりました。どうか素敵な未来が待っていますように。
ウルッとしたり、ほっこりしたり、うーむ。と思ったり、様々な気持ちになれる短編集でした。ただ、最後のお話が”苦々”だったから、読了後もしばらくはその気持ちが残ってしまって・・・。なかなか苦味の残る読後感でした。でも、実はこういうのも好きなので、続編が出たら大喜びで手に取るんだろうなぁと思いますけどね。
・コウノトリが運ぶもの
・青い果実のタルト
・共犯のピエ・ド・コション
・追憶のブータン・ノワール
・ムッシュ・パピヨンに伝言を
・マカロンはマカロン
・タルタルステーキの罠
・ヴィンテージワインと友情
(2017.02 読了)
2017年03月15日
さまよえる古道具屋の物語(柴田よしき)
連作短編集。
ある日突然、現れた古道具屋。人々は誘われるように、その古道具屋で欲しくもない物を買ってしまう。それを手にした人々は、それぞれ抱えた悩みを解決していくのだが・・・。
タイトルだけみると、なんだか柴田さんじゃなくて他の作家さんの作品なのかと思ってしまうんだけど(笑)で、内容も、1話目を読んだ時点ではほのぼの系だと思ってたんですよね。得体の知れない古道具屋の主人に半ば強引に買わされた物によって、人々はそれぞれの未来を切り開いていく、みたいなね。ところが、そう思えてたのは1話から2話目くらいまでで、読み進めていくと、・・・ん?・・・あれあれ?あれぇ~!?え、そうなるのーーっ!?と、それはそれは予想外な方向へ導かれていくんですよ。気がつくと、最初に思った「ほのぼの系」という言葉が似つかわしくない、そんなお話になっていました。そして、予想以上に時間の流れも早かったですね。2話目で阪神淡路大震災だったんだけど、最後のお話では東日本大震災も起こってて、そちらも意外でした。
人々が古道具屋の主人から買わされるものは実に様々。文章と挿絵が逆さまに印刷された絵本、投入口がふさがれた金色の豚の貯金箱、ポケットの底が破けたエプロン、取っ手が取れてしまったコークスバケツなどなど。最初は意味のない、必要のないものばかりと思っていても、強引に買わされて持って帰ると、なんだか意味のあるものに思えてくる。そうなんですよ。最初は「ガラクタ」だと思っていたものが、だんだんと「自分にとって必要なもの」に変わっていくんですよ。それがね、その人にとっては本当に必要なものだったんだと思えてるうちは良かったんだけど、だんだんと「そうじゃないのかも?」と思えてくると、じわり、じわりと恐怖が湧いてくるんですよねぇ。実は必要ないけど「必要だ」と意味付けしなければという心理が働いて・・・とかね。最初、ほのぼの系だと思った理由の一つが古道具屋の主人の顔だったんですけど。”忍者ハットリくんのお面のような顔”って描写に、ちょっとコミカル路線なんだなぁとすら思ったんだよね。それも、だんだんと不気味に感じられるようになってしまって・・・。この物語に登場する人たちと同じように、読んでる自分自身も、上手く操られているような、というかね、人の思い込みって怖いなぁと感じることになりました。
と、そんなこんなで恐怖を感じるようになった頃に、古道具屋の主人の正体や、その真相が明かされ、途端に恐怖が消えて、切なさや悲しみで胸が一杯になりました。ハットリくんのお面のような顔だったこと、ぶっきらぼうとも言える口調、思いつきのような値段設定、古道具たちの意味など、それは、そうなるだろうなぁとストンと納得出来るものばかりでした。ただ、本当に切なかったけどね。それでも、最後は、古道具も人々の気持ちも、それぞれ納まる所に納まって、良かったなぁと思えるラストでした。
予想していたお話とは違っていたけど、だからこそ、より胸に残る作品となったような気がします。読了後に、あぁ、これは柴田作品だなぁとしみじみ思ったりもしたのでした。
(2017.02 読了)
ある日突然、現れた古道具屋。人々は誘われるように、その古道具屋で欲しくもない物を買ってしまう。それを手にした人々は、それぞれ抱えた悩みを解決していくのだが・・・。
タイトルだけみると、なんだか柴田さんじゃなくて他の作家さんの作品なのかと思ってしまうんだけど(笑)で、内容も、1話目を読んだ時点ではほのぼの系だと思ってたんですよね。得体の知れない古道具屋の主人に半ば強引に買わされた物によって、人々はそれぞれの未来を切り開いていく、みたいなね。ところが、そう思えてたのは1話から2話目くらいまでで、読み進めていくと、・・・ん?・・・あれあれ?あれぇ~!?え、そうなるのーーっ!?と、それはそれは予想外な方向へ導かれていくんですよ。気がつくと、最初に思った「ほのぼの系」という言葉が似つかわしくない、そんなお話になっていました。そして、予想以上に時間の流れも早かったですね。2話目で阪神淡路大震災だったんだけど、最後のお話では東日本大震災も起こってて、そちらも意外でした。
人々が古道具屋の主人から買わされるものは実に様々。文章と挿絵が逆さまに印刷された絵本、投入口がふさがれた金色の豚の貯金箱、ポケットの底が破けたエプロン、取っ手が取れてしまったコークスバケツなどなど。最初は意味のない、必要のないものばかりと思っていても、強引に買わされて持って帰ると、なんだか意味のあるものに思えてくる。そうなんですよ。最初は「ガラクタ」だと思っていたものが、だんだんと「自分にとって必要なもの」に変わっていくんですよ。それがね、その人にとっては本当に必要なものだったんだと思えてるうちは良かったんだけど、だんだんと「そうじゃないのかも?」と思えてくると、じわり、じわりと恐怖が湧いてくるんですよねぇ。実は必要ないけど「必要だ」と意味付けしなければという心理が働いて・・・とかね。最初、ほのぼの系だと思った理由の一つが古道具屋の主人の顔だったんですけど。”忍者ハットリくんのお面のような顔”って描写に、ちょっとコミカル路線なんだなぁとすら思ったんだよね。それも、だんだんと不気味に感じられるようになってしまって・・・。この物語に登場する人たちと同じように、読んでる自分自身も、上手く操られているような、というかね、人の思い込みって怖いなぁと感じることになりました。
と、そんなこんなで恐怖を感じるようになった頃に、古道具屋の主人の正体や、その真相が明かされ、途端に恐怖が消えて、切なさや悲しみで胸が一杯になりました。ハットリくんのお面のような顔だったこと、ぶっきらぼうとも言える口調、思いつきのような値段設定、古道具たちの意味など、それは、そうなるだろうなぁとストンと納得出来るものばかりでした。ただ、本当に切なかったけどね。それでも、最後は、古道具も人々の気持ちも、それぞれ納まる所に納まって、良かったなぁと思えるラストでした。
予想していたお話とは違っていたけど、だからこそ、より胸に残る作品となったような気がします。読了後に、あぁ、これは柴田作品だなぁとしみじみ思ったりもしたのでした。
(2017.02 読了)
2017年03月07日
望み(雫井脩介)
建築デザイナーの石川一登。妻は校正者の貴代美。高一の息子と中三の娘の二人の子供たちと東京のベッドタウンで暮らしていた。夏休み明けのある日、息子が2日経っても帰らず連絡も取れない中、息子の友人である少年が復数人によって殺害されたというニュースが流れる。行方不明になっているのは3人。死体を積んだ車から逃走したのは2人。息子は犯人なのか、それとも・・・。
読んでいる途中からタイトルが胸に迫ってきました。父親は息子が犯人であるはずがないと思うが、それは息子の死を意味し、母親は生きていて欲しいと思うが、それは息子が犯人であることを意味する。父親の「望み」と母親の「望み」は、どちらも理解できるし、どちらであっても辛いことには変わりはないんですよね。二人の心情が切々と綴られ、その思いが胸に迫まってきて息が出来ないような、そんな気持ちになりました。私ならどちらの「望み」を持つだろうか。考えても考えても答えは出なくて、「やっぱり・・・」「いや、でも・・・」と心が揺れてばかりでした。子供を持たない私でさえもこうなのだから、子供を持つ親の立場で読んだ人は、さぞや読み進めるのが辛かっただろうなぁと思います。
父と母の「望み」が違っていたことで、お互いへの不信感も生まれたり、そこに妹である娘の心情も絡まって、家族としての関係も微妙に変わってしまう。そして、身内や近所の反応も様々で、なんというかね、自分の身に置き換えたりして、なんともいえない気持ちになりました。私が、それぞれの立場だったら、どんな言動を取るのだろうか。もちろん、実際にその立場にならないと分からないんでしょうけど、深く考えるのがちょっと怖くなったりもしたのでした。
それにしても、マスコミの傍若無人振りには腹が立ちました。犯人と決まったわけでもないのに決め付けたり。読んでてムカムカしました。TVでは時折、ここに書かれている様なインタビュー映像が流れることがありますが、個人的には「そんな映像は見なくていい。」と思うことが多いです。最近では、成人している加害者の親の謝罪映像が流れたりもするんですが、それも要るのか?と疑問に思います。まぁ、あくまでも個人的な意見ですけどね。
・・・と、話がチトそれました。
途中から、結末はどちらの親の「望み」なんだろうか気になってページを繰る手が止まらなくなりました。でもね、どちらであっても辛い結末には変わりなくて、大どんでん返しで「第3の望み」にとかにならないものかと、そんな願いを持ちつつ読み進めたんですが・・・。
最後はやっぱり泣いてしまった。この家族が、この後、どうなったのか知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちで読了しました。
(2017.02 読了)
読んでいる途中からタイトルが胸に迫ってきました。父親は息子が犯人であるはずがないと思うが、それは息子の死を意味し、母親は生きていて欲しいと思うが、それは息子が犯人であることを意味する。父親の「望み」と母親の「望み」は、どちらも理解できるし、どちらであっても辛いことには変わりはないんですよね。二人の心情が切々と綴られ、その思いが胸に迫まってきて息が出来ないような、そんな気持ちになりました。私ならどちらの「望み」を持つだろうか。考えても考えても答えは出なくて、「やっぱり・・・」「いや、でも・・・」と心が揺れてばかりでした。子供を持たない私でさえもこうなのだから、子供を持つ親の立場で読んだ人は、さぞや読み進めるのが辛かっただろうなぁと思います。
父と母の「望み」が違っていたことで、お互いへの不信感も生まれたり、そこに妹である娘の心情も絡まって、家族としての関係も微妙に変わってしまう。そして、身内や近所の反応も様々で、なんというかね、自分の身に置き換えたりして、なんともいえない気持ちになりました。私が、それぞれの立場だったら、どんな言動を取るのだろうか。もちろん、実際にその立場にならないと分からないんでしょうけど、深く考えるのがちょっと怖くなったりもしたのでした。
それにしても、マスコミの傍若無人振りには腹が立ちました。犯人と決まったわけでもないのに決め付けたり。読んでてムカムカしました。TVでは時折、ここに書かれている様なインタビュー映像が流れることがありますが、個人的には「そんな映像は見なくていい。」と思うことが多いです。最近では、成人している加害者の親の謝罪映像が流れたりもするんですが、それも要るのか?と疑問に思います。まぁ、あくまでも個人的な意見ですけどね。
・・・と、話がチトそれました。
途中から、結末はどちらの親の「望み」なんだろうか気になってページを繰る手が止まらなくなりました。でもね、どちらであっても辛い結末には変わりなくて、大どんでん返しで「第3の望み」にとかにならないものかと、そんな願いを持ちつつ読み進めたんですが・・・。
最後はやっぱり泣いてしまった。この家族が、この後、どうなったのか知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちで読了しました。
(2017.02 読了)